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創業期 昭和12年〜昭和23年

創業者 鈴木幸三郎について

創業者・鈴木幸三郎は明治36年、愛媛県周桑郡東予町大字新町で家具製造業を営む仙吉の9人兄弟の五男として生まれた。

子供の頃から活発な男気のある性格で、独立心も人一倍旺盛だった。愛媛の小学校を卒業すると早くから養蚕技術を身につけて独立し、全国に技術指導に出かけるようになった。

当時より、自分の幸せと他人の幸せを併せて考えるような青年で、宗教活動に関心を持ち始め、「人の道教団」に入信。如何に人のために生きるかを真剣に考え続けた。養蚕の指導に西へ東へ精力的な活動をつづけた。養蚕の指導に西へ東へ精力的な活動を続けながら、伝道活動も熱心に行い、各地で教えを説いていた。そんなとき向かった門司で冨子と出会い、愛をはぐくみ結婚。二人は約一年、門司で新婚生活を送る。しかし、養蚕業がかげりを見せ始めると、二人は親しんだ門司を後に、幸三郎の姉の嫁ぎ先である大阪に新たな人生を求めて旅立った。

ベルトワックスと運命的な出会い

昭和11年、幸三郎たちが落ち着いたのは東淀川区にあった幸三郎の姉の夫がやっていたという薬工社。姉婿・徳永延之氏は昭和4〜5年頃、日本で初めて当時輸入品だったベルトワックスなるものを製造し始めた人で、満州事変から支那事変へと移る頃にはベルトワックスが輸入できなくなったため注文が大幅に増え、亀甲印のベルトワックスとして知られるまでになっており、独自の技術力が世に認められていた。二人は、そこに住み込みで働いた。

その頃は機械を動かすのに、大方のところで平ベルトが使われていた。ところが、この平ベルトは長時間回し続けると摩擦熱を起こし、スリップし機械を止めてしまうことが、しばしばあった。何とかその滑りを止められないかと徳永延之氏は考え、滑り止めの粘着材があればいいと、海の向こうドイツから技術資料を取り寄せて、大阪技術産業研究所で分析してもらい、ピッチ(松の根の固めたもの)を使ったベルトワックスを考案したということだ。これは当時として画期的な技術で、十三にあった工場は、それはそれは忙しかったそうだ。

べっとりと黒い松の根っこからとったピッチは臭いもかなりきつかったが、幸三郎たちはいやな顔ひとつせず身を粉にして働いた。

鈴木油脂工業所設立

その結果昭和12年、大阪市東淀川区下新庄1-8-22に小さなバラック小屋を建て独立した。わずか一年余りで鈴木油脂工業所を立ち上げたのだ。それは、妻と二人だけの文字通りの “城” 。幸三郎33才のときのことである。

鈴木油脂工業所とはいったものの、その風体は田んぼのなかの掘ったて小屋で、ベルトワックスもそれは原始的な工程で造られていた。自宅と繋がった工場は、トタン屋根の15坪ほどの広さ。前には池があった。

                        

リンゴ箱にセロファンを敷いて、炊いた脂を流し込んで、朝になると抜いて裁断した。裁断にはピアノ線と鉄棒を使い、裁断したものは、もう一つ小さく切り分けて包装した。昼夜を問わず仕事漬けの毎日ではあったが、若い二人には、そんな苦労も大きな喜び。時まさに軍需産業の全盛期。世の活気に押され、幸三郎たちのベルトワックス製造も波に乗っていた。特に昭和11年、2.26事件後は工業が盛んになり、二人は寝る間も惜しんで働いた。

昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発。軍需景気はさらに活気を見せ、鈴木油脂工業所もますます忙しくなる。仲の良い二人は次々と子宝に恵まれ、冨子は4人の子供の世話をしながら夫の仕事を助ける。幸三郎も家族思いで、二人の姿は近所でも評判であった。

幸三郎戦地へ

軍需景気に浮かれていた日本の戦況は次第に悪化、昭和18年には大阪上空を空襲が襲った。

そして昭和19年、ついに幸三郎の元へも召集令状が送られてきた。幸い、幸三郎の軍隊生活は1年余りと短く外地へ行かず、昭和20年8月15日、四国は足摺岬で終戦を迎えた。幸三郎が夜中に大きな袋を持って大阪の地に降り、家族を驚かせたのはそれから半年後のことであった。

廃墟の中で仕事再会

戦地から戻った幸三郎は、戦後の荒廃したなかで、またベルトワックスを造ろうとするが、その頃は日本中から工場という工場が消えてしまっているような有様で、当然ベルトワックスの需要もなく、原料もなかった。ピッチに苛性ソーダ、魚油をブローカーから買おうとしても物不足、品不足の戦後のこと、お手上げ状態であった。

何か、他のもの、自分たちで出来るもの、ベルトワックスに代わるものはないかと幸三郎は頭を悩ます。苦心に苦心を重ねた結果、苦肉の策として生まれたのが、あり合わせの植物油脂や動物油脂に粘土を混ぜ苛性ソーダで鹸化させた「粘土石鹸(洗濯石鹸)」。粘土の摩擦で汚れが落ちるのが評判となり、戦後のヤミ市で、これがどぶように売れ、20〜22年頃までこの粘土石鹸が鈴木油脂工業所の看板となった。

その頃、工場の周り、下新庄辺りは、まだ田畑が多く、幸三郎は粘土石鹸を近所の農家で米や野菜と変えてもらっては、子供たちに食べさせた。粘土石鹸は幸三郎の事業と戦後の食糧危機の両方を救った。

新生ベルトワックス誕生

昭和22年頃になると大阪でも少しずつバラックの工場が建ち始め、ベルトワックスがまた必要な時代が到来。幸三郎のベルトワックス造りが始まった。戦後の復興も始まり、本格的な生産に乗り出そうとするが、戦争の傷跡は深く原料となるものが未だ揃わない。

幸三郎は何とか時代に合った製品づくりができないものかという思いに駆られ、研究を始める。原料不足は数年続くのであるが、それでも何とかしなくてはならないと切望し続けた。考え、それをカタチにする一連の行動に長けた幸三郎の本領発揮のとき。

そうした24年頃、中国は魯迅から精製された松ヤニが入ってくるようになったのだ。幸三郎はこんなにきれいな松ヤニがゆにゅうされるようになったのだから、これを使って透明なベルトワックスができないかと考えた。これまでのベルトワックスは松の根(ピッチ)に苛性ソーダ、植物油、魚油を混ぜるというもので、夏は溶けやすく、冬はコチコチに固まり扱いにくく、また、臭いも相当きつかった。常に進歩を求める幸三郎は研究を重ねるうち、透き通った羊羹のようなワックスにたどりついたのである。松の根っこから取るピッチでではなく、松の幹から取ったきれいな透明の松ヤニに牛脂と苛性ソーダを鹸化させることで、上質のワックスが造れることを発見したのだ。

ベルトワックスといえばピッチを使った真っ黒いものという常識を打ち破る、見栄えも臭いも違う、はるかに精度の高い、近代的なこの透明ベルトワックスで鈴木油脂工業は蘇り、一躍檜舞台に躍り出たのである。全国から注文が殺到したが、依然として原料不足は続き、幸三郎の何とかしたいという思いが、全国に20社くらいあった町工場に声をかけた設立『日本ベルトワックス工業会』となった。そして、幸三郎は初代会長となり、組合の声を結集して原料を供給してもらおうと、通産省に陳情に出かけたりもした。

その頃からの鈴木油脂の原料の供給先は明星商会、安土商店、播磨化成、荒川林産、瑞穂商店、喜多組商事などがあり、現在も鈴木油脂とお取り引きいただいている。また、主なベルトワックスの納入先には中正商店(現 中正機械金属株式会社)、北野商店、勝山商会(現 カツヤマキカイ株式会社)、大阪鯨レーシング、村上ベルト商会、東京の田中ベルト(現 田中ベルト株式会社)などがあり、多くのお得意さまに幸三郎は絶大な信用を得ていた。

 
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