

そんなパニックの前後に松尾光邦さんは、ふらりと鈴木油脂にやってきては洗剤の製造方法や化学の話をしては帰っていった。松尾さんは摂津油脂の研究室長を長く勤められた方で、定年退職された後は体も弱かったのでブラブラしておられたようだ。
そして「鈴木油脂は若い科学の出来る人間を採用して化学メ−カ−らしく育て上げねば…。せっかく先代がいいお得意さんをつくって30年近くもなる会社なんだから…。私に出来ることは手伝ってやりたい」と言われた。
松尾さんは若い頃、通産省工業技術院大阪工業技術試験所(大工試)に勤務しておられた関係から 当時大工試の無機材料質の室長をしておられた同姓の松尾寛二さんと親しくしておられた。そこで、毎年卒論のために研修にきている大学生を鈴木油脂にお世話して欲しいとお願いしてくださった。これは鈴木油脂にとって本当に有り難いことであった。

50年、技術者第1号として応用化学部卒業の久保田正平(現 エンジニアリングマネ−ジャ−)が、51年には水口正昭(現 研究開発部部長)、52年には仲村芳夫(現 研究開発部副部長)を鈴木油脂は迎えることになった。3人は大工試で松尾さんの指導を受けており鈴木油脂に希望を見い出してやってきた。3人の若い化学者は松尾さんのアドバイスを受けながら、研究室もない鈴木油脂で研究開発と製造を兼用しながら日夜仕事に精出した。この3人が入社から今日まで鈴木油脂の商品開発と製品生産の基礎を築いた。
洗剤『サラサ』の製造も順調で、52年松尾さんが開発したクリ−ム洗剤『エルグ』も軌道に乗り始めていた。
アメリカで売れている商品をリサ−チして車や家具の艶出しワックスを造ってみようということになり、松尾さんの指導で『艶だしワックス』も出来あがった。この頃、一世を風靡した“花の応援団”のラベルを貼った製品は『シンボルとなりキャラクター同様、ヒット街道をばく進した。

その昭和54年4月25日、当社東淀川区下新庄1丁目8番の本社工場から火災が発生した。石油原料を溶解していた時のことである。直火で原料を温めているちょっとしたスキに火花がスプレ−に引火したのである。瞬く間に工場は火の海となり炎は舞い上がり本社をつつんだ。その日は全鉄道のストライキと集金日が重なっていて社長(現会長)は集金に、専務(現社長)は出張に出ていた。
社長が現場に着いた時には既に全焼。すぐさま消防所長の所へ頭を下げに行ったと言う。そうしたら「今日は風もなく天の助けだ」と言われたそうだ。理由は、その前日まで台風が来ていたからだ。油脂工場でありながらそれほど類焼がなかったのは、まさに天の助け。若い社員の懸命の働きで工場は速やかに復興に立ち上り、お得意様、仕入先などの力強いお見舞いと信頼をいただいて6日めには生産を一部再開することができた。関係各位の温かいお気持ちに報いるためにも二度とこのような不祥事をおこすことのないよう全社をあげて誓い合った。
現在の東淀川区井高野2丁目1番37号は先代が東淀川工業会で役を共にしていた仲間の会社社長の紹介を受け、当時の太陽鉄工株式会社常務の北浦慎三氏が「すぐにでもお使いください」と即決いただいて借りることができたもの。そこは2棟倉庫の1棟で100坪ほどのスレ−ト引きだった。当座はドラム缶に原料を入れてホモミキサ−で製品を造り、お得意さまの注文を消化した。ベルトワックスは東京の武 田油脂工業(株)で生産してもらいながら順次体制を整えていった。工場を中二階にして、化学実験室を当社始まって以来設けたことで、研究者たちから大変よろこばれた。
あの日を振り返ってみると…
1.嘘のように無風であった。
2.30坪の工場内に20本の油の入ったドラム缶がありながら大惨事を免れた。
3.当社の若い社員が再建のため想像を絶する力を発揮した。
4.お得意さまが先々の注文をくださり、仕入先は無理を承知で当方の急に添った原料手配をしてくださった。
5.消防から同じ場所での生産再開を止められたとき素早く再開の場所を与えられた。
復興にはその他、数々の奇跡的な出来事があり全てのことを先代鈴木幸三郎が導いてくれたような気がしてならない。この時より「住吉大社」を御祭りして朝夕感謝を捧げるように なった。

井高野工場も軌道に乗り始めた55年7月、社員の慰労を兼ねて雲仙へ2泊3日の社員旅行に出かけた。マイクロバスを手配して、総勢25名は福岡、長崎と楽しい旅を続けた。最終日、社員の一人が近辺の大きな案内板を指して「地図の真ん中に『生長の家』のマ−クがあります」といった。先代の頃から今も続けている下新庄の『生長の家』集会道場のようなものかと思ったが運転手が「このすぐ近くに『生長の家』の総本山があるんです」と伝えたので、急遽入場し神殿で当社の社員だけで神秘的な参拝をさせてもらった。
先代が熱心な信仰の対象であった『生長に家』の総本山へ、全くの偶然とはいえ参拝することができたのも鈴木油脂の永遠の繁栄を祈念して導かれたような気がしたものだ。

昭和56年末にもう1棟倉庫が空いていたので借りないかいう話があり、まだ1年しか経っていなかったが工場が手狭になりはじめていたので57年早々に借り受け、神棚も新たに設け本社事務所兼倉庫とした。と同時に下新庄2丁目にあったサラサ工場も井高野に移し、生産の向上を図ることになった。この事務所とサラサの生産設備が一同に集中したのを機に毎月1日の朝は神殿に集まり感謝祭を行い、『生長の家』の思想を鈴木油脂の経営理念に取り入れることになった。それ以後は、@会議の時には生命の実想を輪読してから始めるA感謝祭には必ず『生長の家』の真理の言葉を読むB宇治の『生長の家』社員研修会には逐次全員参加し真理を勉強するC2ヶ月に一回『生長の家』の講習会をする(現在は休止中)D献資(神に資金を献ずる)をするなどの行事を行うようになった。

59年頃の鈴木油脂は借り倉庫(現在の井高野倉庫兼工場全ては当社所有物件である)であり、井高野工場周辺住民から苦情も出ていたので、どこか化学工場地で危険物も扱える場所はないかと探していたが工場団地の抽選にはなかなか当たらなかった。ところが59年、兵庫県西宮浜で募集があり、それも兵庫県の事業者優先であったが運良く当選。初めての土地の購入と工場建設を同時に進める大事業を行くうことになった。
60年、鈴木油脂では大工研の中原先生を迎えて月に1度研究開発会議を行っていた。その席で中原先生より「鈴木油脂でマイクロカプセルを造ってみませんか?」という話が持ち出された。マイクロカプセルは中原先生の研究で、そのプロジェクトに当社研究室の水口が入っていたこともあっての願ってもない話で、研究開発チ−ムの飛躍と、研究課題づくりのためにも「やってみよう!」ということになった
カプセル事業部立ち上がり当初は次々と特許を出し、新たな研究開発で国からは補助金も出た。大阪府や通産省からは特別融資が受けられるなど工場を建ててからはベンチヤ−企業として外部からも認定され、社内も活気に満ちていた。
昭和56年末にもう1棟倉庫が空いていたので借りないかいう話があり、まだ1年しか経っていなかったが工場が手狭になりはじめていたので57年早々に借り受け、神棚も新たに設け本社事務所兼倉庫とした。と同時に下新庄2丁目にあったサラサ工場も井高野に移し、生産の向上を図ることになった。この事務所とサラサの生産設備が一同に集中したのを機に毎月1日の朝は神殿に集まり感謝祭を行い、『生長の家』の思想を鈴木油脂の経営理念に取り入れることになった。それ以後は、@会議の時には生命の実想を輪読してから始めるA感謝祭には必ず『生長の家』の真理の言葉を読むB宇治の『生長の家』社員研修会には逐次全員参加し真理を勉強するC2ヶ月に一回『生長の家』の講習会をする(現在は休止中)D献資(神に資金を献ずる)をするなどの行事を行うようになった。

無機質マイクロカプセル工場は小さいなりにも充実していた。水口、林らが主体となって若い工業高校卒業者4〜5人が研究開発型生産体制をとり、将来性のある素材の開発に夢をふくらませた。無機質カプセルでは世界初とあって注目され、大手の化学メ−カ−からサンプルの提供依頼が一時殺到し、さばききれないこともあった。一流化粧品メ−カ−からの本格的な引き合いに研究室も対応に大忙しとなった。そのいずれもが「未知の素材として開発に使いたい」「製品の付加価値を上げるために使いたい」という依頼であり、『ゴットボ−ル』(当社製マイクロカプセルの商品名)には無限の可能性が秘められていることが証明された。
松尾さんはその時75歳を過ぎていたが、それでもなお発想は冴え渡っていたが、86歳で帰らぬ人となった。毎年命日には久保田、水口、仲村の3人は墓前で松尾さんを偲んでいる。

平成4年にはアロエロ−ヤル手洗い洗剤も井高野工場では生産が間に合わなくなった。いよいよ西宮の空き地に化成品生産のための新工場を建設する時期がきたようだ。62年のマイクロカプセル工場を100坪としておいたのが幸いして、新たな工場は250坪と広くゆとりのある仕事場と研究室をつくることができた。
本格的な工場用手洗い洗剤の他、様々な業務用洗浄剤の生産が始まり生産体制は充実した。5階にある研究開発室では当社がメーカーとして21世紀に誇れる優秀な研究社員たち13名が豊かな発想力とアイディアでユーザーのニーズに応える製品づくりに励んでいる。
平成8年はトップ交代。社長が『生長の家』大阪ブロックの会頭を引き受けたのを機に専務が社長に就任した。体育会で鍛えた精神と後輩を見る眼差しの優しさが新社長の魅力。心機一転して開発に営業に取り組もうと真っ白な帆を揚げ船出した。女性の営業社員を大勢送り出すなど果敢な挑戦で各方面から熱い視線を注がれる。
平成10年〜11年は社内総点検の年。マイナス成長の時は利益を上げることに躍起になるよりこれまでどおり堅実経営を、そして全員がコスト意識をもって業務に当たろうと誓い合う。不況を嘆くよりも幸せは足元にあること、自ら創り出すものであることを確認しあって鈴木油脂は真っ直ぐ前に向かって今日も漕ぎ出す。