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躍動期 昭和38年〜昭和48年

兄弟で本格化学会社をめざして

ベルトワックス産業にとって、どん底の時代をそれでも何とか持ちこたえていたのが昭和38年。そして、昭和39年の春になって、弟の隆夫(現・社長)が大阪経済大学を卒業することになった。社長に代わって会社を切り盛りしていた佳祐が「鈴木油脂を立派な化学の会社にしたい」と切望していた、その時、弟が「大学卒業したら一緒に仕事してもいいぞ」と申し出て、一筋の明かりを見い出した思いがしたという。

当時の鈴木油脂は低迷状態で、キツイ、キタナイ、キケンの3つの悪条件をかなり立派に揃えていた。労働力は欲しくても集まるはずがなく、若い人材など無縁の職場環境であった。しかし、化学の会社に脱皮したいと願う兄の意思は強く、弟は「二人で、その夢を実現してみるのも悪くない。これも親孝行」と言い、父が築き、兄が動かす会社への就職を決断する。そして、商売の仕方も分からないまま、現場と営業の両輪をフル回転させ、いきなり走り出した。

午前中は現場の仕事をこなし、午後はトラックに靴とネクタイを積み込んで配達に。途中、ここぞと思う会社をみつけたら、素早く着替えて営業に飛び込む日々が続いた。

二人の力であみだしたピンク洗剤

兄と弟は7つ違い。手探りではあるが、本気で取り組む毎日だった。その一方で、ベルトワックスに代わるものを求めつづけた。時同じくしてパーライト洗剤が世に現れ、「簡単に作れる手洗い石けん。これを鈴木油脂でも作ろう」ということになった。

パーライト洗剤は真珠岩に高温で発砲させた砂状のものを混ぜると、うまい具合に染み込んでいき、それで手を洗うと汚れが落ちるというもので、技術力に乏しい二人は、これなら出来ると思ったそうだ。この通称、ピンク洗剤は、あまりいい出来ではなかったがベルトワックスのルートに乗せることも出来たし、意外と人気があった。そして、何よりも二人の共同作業が実った喜びは大きく、工具屋さんへの売り込みにも俄然力が入る。若い二人は実績をあげることだけを考えて、突っ走った。

その結果、13ヵ所くらいの問屋で、その出先の全てが在庫の承諾をしてくれ、なかには1回に1000個・270万円くらいの注文をくれるところもあって売り上げは一気に200万円に達する程になった。

ベルトワックスでは、どんなに頑張っても月120万円が限界だったので、この手洗い洗剤で工場は活気づき、パートやアルバイトを雇うようになった。41年に製造・販売したこのピンク洗剤が、様々な業務用洗剤を製造するきっかけをつくり、この頃の取り引き先が今日まで綿々と続いている。

仕事が軌道に乗り出すと、桂祐は営業、隆夫は現場と責任の分担をしたりと事業家らしくなってくる。この頃から桂祐は、化学の知識を得たいと大阪府工業試験所に勉強に通うようになった。

幸三郎の死

幸三郎は化学知識のない二人の仕事に何とか力添えしてやらねばと感じ、上新庄にもつ300坪の土地に現金収入源となる公衆浴場を開設した。これは昭和45年頃のことで、すぐ近くに団地が建設されたが風呂がなく、住民が困っているのをみかねたためでもあった。上新庄の『幸福温泉』は地域住民の憩いの場となり、鈴木油脂もそのお陰で潤うこととなった。

一方、ピンク洗剤もお得意様の力強い引き立てにより順調な生産を続けられるようになっていた。幸三郎は桂祐、隆夫の協力体制に安心したのか、これまで以上に社会のために尽くすようになり、人の役に立つこと、人に喜ばれることを生きがいとして、企業では遂げられなかったその思いの全てを『生長の家』に捧げ、大幹部となっていった。しかし、この頃から幸三郎の体調は思わしくなく、48年にはついに帰らぬ人となった。

若い兄弟がここまでやってこられたのは、幸三郎の誠実な仕事ぶりによって得たお客様の支えによるところが多い。戦後20社ほどあったベルトワックスメーカーも現在ではたった2社となり、鈴木油脂が独占的に全国の需要をまかなう形となって、幸三郎が起した事業は今もなお脈々と息づいている。

新社長誕生

昭和48年、桂祐は取締役社長に就任。専務となった隆夫と共に化学の会社へ、ますます闘志を燃やす。世は神武景気とか大和景気とかいわれ、日本経済はエコノミックアニマルと称されるほど猛進を続け、化学工業は鉄鋼業と共に、日本経済を大発展へと導いていたが、この頃の鈴木油脂は、まだバラックのような工場に社長と専務の他、数人のパート社員がいるだけで、名称は化学に類する業種でありながら科学知識者も経営基盤もないちっぽけな町工場で前途は暗かった。

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