

昭和24年11月1日、鈴木油脂工業所は法人組織に改め、資本金100万円で株式会社を設立した。その頃、東淀川に株式会社は30社ほどしかなく、この法人化は幸三郎にはとっても誇らしいことであった。
そんな時代だから、電話をつけるのも大騒ぎ。2キロくらい先の先の会社から電話線をひかせてもらうという大工事で、当時のお金で20万円ほどかかった。
時代は戦後の生産ブ−ムへと向かうが、原料不足は少しも改善されず、闇ル−トで仕入れたりと生みの苦しみを味わっていた。
鈴木油脂工業株式会社となったものの、従業員も社長以下3名。ひとつ、ひとつ手作業のベルトワックス造りは変わらなかった。全国ベルトワックスメ−カ−の組合の会長となった幸三郎は通産省と接し、原料の確保に奔走する日々を送る。

昭和25年になって朝鮮動乱が始まった。軍需景気で産業が活気づくと同時に、新しい機械がどんどん導入されるようになった。まさに、産業革命である。ところが動乱で工場が乱立すると、それに反比例してベルトワックスの需要は少なくなっていった。そして、その時は足音を忍ばせてやってきた。町中にベルトワックスを必要としない機械が溢れ出したのだ。
想像もできないほどの急降下で、ベルトワックス産業は斜陽の道をたどることになる。産業界では機械にベルトを使うことすらなくなりはじめ、ベルトワックスを塗ること自体が不要になってしまったのだ。このベルトを使わずに伝導する機械がVプ−リ−といわれるもので、時代はVベルトが主流となっていった。
幸三郎は、そのVベルトでもワックスは必要だと直感し、Vスプレ−ワックスを開発。新製品として新たなベルトワックスの需要を切り開いた。幸三郎には化学の知識はなかったが、それでも知恵を絞って果敢に挑戦。ワックスの粘着性を活かして、ハエ取り紙をつくったこともある。
その頃、長男.桂祐(現.会長)は日本大学経済学部3年生。幸三郎は息子に鈴木油脂の将来を想い「後は継がなくてもいい。自分の道を進むよう」進言し、桂祐も別の会社へ行く気になっていたという。

昭和32年、卒業間近な桂祐の元へ「父倒れる」の知らせが入った。幸三郎が肋膜になったのだ。幸い、幸三郎の病気は4ヶ月くらいの入院ですんだが、思いもかけない事態は桂祐に「親父が倒れたのだから仕方がない」「親父とおふくろがつくった会社を潰すわけにはいかない」と思わせることとなり、卒業と同時に大阪に戻った。学校の休みの度に手伝っていた仕事が、桂祐の一生の仕事となったのだ。そのときから桂祐は、パ−トの従業員と共に朝から晩まで油だらけになって働く。1日2トン釜で多いときで3回くらい炊いていたという。この桂祐の働きがあってか、「製造は桂祐に任せた」という気になったのか、幸三郎は気持ちを楽にし、『生長の家』の発展のために全力投球するようになった。
斜陽化したベルトワックス産業は坂道をころげるように、次第に細く、細くなっていく。鈴木油脂にも暗雲の雲が立ちこめる。次第にベルトワックスの注文は少なくなり、当時3人ばかりいたパートの方に、朝になると「今日は仕事がないので帰ってもらっていいですよ」という日が多くなり、若い桂祐は心を悩ます。
何かと理由をつけては『生長の家』の活動に出かける幸三郎に、ある日桂祐は思い切ってこう言った。「仕事がこんな状態なんだから、もう少し会社のことを考えてもらえないか」と。
そのとき幸三郎は「うるさくいうな。わかってる。これは、わしの道楽や。こうやっていろいろ社会のお役に立っていることが、天の倉に徳を積むことなんや」と答えたという。桂祐、孤軍奮闘の日々が続く。